東京都美術館で「伝説の洋画家たち」を観賞しました。

 午後は12時1分の快速新木場行きで移動を開始しました。車中では幸い座席を確保できたのでジャン・グルエニの『孤島』(竹内書店)を読みました。その中にこんな言葉が有ります。「言ってもいいだろうか?自白してもいいだろうか?私の生活は、北方の国に移されると、重苦しくなり、詩がなくなる。詩がなくなるという意味は、単調きまわりないものにたいして、たえず新しい面を発見するきっかけとなるあの不意のおどろきがなくなるということである。それに私はといえば、私にとって新しいものにさえ単調な面を発見したものだった…。私は私をもっとよく自然に結びつけるものに心を向けた。たとえば通りを行く動物(馬や犬)に、樹木に−−ほとんどなかったが−−それから花屋のショーウィンドーの中にある鉢植えの植物にさえも。そうした花屋の一軒の看板に、「ボルロメオ島の店」という見た日の、なんというおどろき!赤羽で下車して12時19分の大船行きで移動を続けました。上野で下車して東京都美術館でシニア料金の1000円を支払って、これで三度目となるのですが、会場に入ると坂本繁二郎の「海岸の牛」が有り杭につながれた一頭の牛が全身に光を浴びて立っていて、四つの足で大地を踏み締めて立っている姿が堂々としていました。村山槐多の「庭園の少女」はおかっぱ髪で和服を着ている少女の像で花々に囲まれてひっそりと寛いでいます。湯浅一郎の「椅子によれる女」は視線を逸らし椅子に座っている和服の女性の姿で赤い和服からは、寛いだ雰囲気が感じられました。松岡正雄の「村の子供達」はパネルに寄ると故郷の子供達を描いた作品で二人が中心に立っていて、傍らにはしゃがんだ少年が二人ほど居ます。萬鉄五郎の「木の間から見下ろした町」はパネルに寄ると実験的な作品で「本の間から見える風景」をテーマにキュビズム、フォーブや表現主義的な方法を試みた一点。と有りました。神原泰の「この苦しみにわれらはいのちをかけたり」はパネルに寄ると仏哲学者のベルクソンの概念「エラン・ヴィタール」に影響を受け作品はむしろ表現主義的との指摘が書いて有りました。一階に上がると小出楢重の「帽子をかぶった自画像」が有り白い夏服、黒い帽子、椅子の上にトランペットなどが置かれていて、画面は雑然としていました。東郷青児の「超現実派の散歩」は空中に浮遊している全身白ずくめの男で月を取りたいと思って手を伸ばしていることろでした。村井正誠の「ゴルフ・ジュアンの庭」は青い物体が置いてあり、手前には植物が置いてあり、葡萄のようなものも有りました。二階に上がると宮本三郎の「家族席」が有り多数の人々が観劇をしている風景で宮本三郎の縁がある人々を描いた作品だと書いて有りました。吉原治郎の「空」は黒雲から稲光が出て灰色の雲を散らしています。国立西洋美術館の常設展もシニアは無料で見られるので見てみました。エル・グレコの「十字架のキリスト」、グイド・レーニの「ルクレティア」、ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」やカミーユピサロの「立ち話」、ジョン・エヴァレット・ミレーの「あひるの子」などを楽しんで国立西洋美術館の常設展を後にしました。