いつものように地下の貯蔵室にごみを捨ててから、ホールで新聞を取って自室に戻ります。

takuzemi2015-06-03

 いつものように地下の貯蔵室にごみを捨ててから、ホールで新聞を取って自室に戻ります。「しつもん! ドラえもん」の質問は「どうぶつえん編」で「危険な動物への薬や麻酔の注射。よこはま動物園ズーラシアではどうしているのかな。」と有り、さっぱり分かりませんでした。新聞を開いて答えを探したら「空気銃や吹き矢を使う」と言うもので納得が行きました。解説には「危ないので直接注射ができない動物の治療をするときは、少し離れた所から動物を狙って、薬や麻酔を入れた注射器を飛ばすんだって。」と有り益々納得が行きました。それから夏目漱石の『それから』を切り抜いてファイルに投げ込んでおきます。「中二日置いて、突然平岡が来た。その日は乾いた風が朗らか天を吹いて、蒼いものが眼に映る、常よりは暑い天気であった。」(中略)「こっちへ御通し申しましょうか」と門野から催促された時、代助はうんといって、座敷へ這入った。あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着ていた。」(中略)「平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかった。従って三日前代助が彼の留守宅を訪問した事についても何も語らなかった。」(中略)「実は二、三日前君の所へ行ったが、君は留守だったね」といい出した。「うん。そうだったそうだね。その節はありがとう。御陰さまで。」(中略)「来た時は、運動しても駄目だから遊んでいるというし、今は新聞に口があるから出ようというし、少し要領を欠いているが、追窮するのも面倒だと思って、代助は「それも面白かろう」と賛成の意を表して置いた。」と有りました。
 細かい雨が降っています。傘を差して散歩に出掛けました。先ずはプチ・パワースポットの沼影観音堂を目指します。六地蔵様を拝んでから本堂の銅鑼を叩いて合掌をしておきました。武蔵浦和の駅まで引き返し自動販売機で冷たいお茶を買いて別所沼を目指します。そのまま散歩を続けます。雨の別所沼は散策する人もなく閑散としていました。長谷川かな女の句碑は「曼珠沙華あつまり丘をうかせけり」を味わって、埼玉県原爆死没者慰霊の碑に合掌し、別所沼弁財天に賽銭を入れて柏手を打っておきました。風の神エベーカトル・ケッツアルコアトルに挨拶をしておきました。帰路は8時近くになり集団登校をする小学生の群れに出会います。思い思いの傘を持っていて可愛いですね。自宅に帰って能率手帳改め改めNOLTYに別所沼3000歩と書いておきました。

大学には11時40分に着き、最初の会議が始まるまで50分ほどの時間が有ります。

 11時2分の各駅停車南船橋行きで移動を開始しました。車中では幸い座席を確保できたのでドミニック・ローホーさんの『人生で大切なことは雨が教えてくれた』(幻冬舎)を読みました。「別世界から響いてくる「こだま」である雨は、私たちをいきなり捕え、現実の世界からこの世の起源へ舞い戻らせることもできる。それはディオニッソス型の生き方、極限を掴む、生命エネルギーが沸々と漲る宇宙空間の「空」を捉えることで、筆舌に尽くせない喜びの瞬間だ。ここで自分が宇宙の一部を成していることを実感するのだ。」と有りました。南越谷で下車して東武スカイツリーラインの11時24分の南栗橋行きに乗りました。大学には11時40分に着き、最初の会議が始まるまで50分ほどの時間が有ります。文学の9回目のハンドアウトを多文化準備室の助手のMさんに手渡しておきました。「レトリックの周辺」というテーマで語るつもりです。研究室ではドミニック・ローホーさんの『「限りなく少なく」豊かに生きる』(講談社)を読みました。「とるに足りないこと」を讃えると題した章に「とるに足りないこと」「無益なこと」とは、よく「価値も将来性もないもの」と同義語ととらえられています。ところが、中国哲学によるとこの「とるに足りないこと」が実は素晴らしいことなのです。意味もなく砂浜に打ちつけては引いていく波、この波の動きを「無益なこと」ととらえてよいのでしょうか。花見に出かけ、桜の花の美しさに心が躍るとき。この花の美しさはどうしてこれほどまでに私たちにエネルギーと喜びを与えてくれるのでしょうか? 花の開花など一見とるに足りないことのようですが、この喜びがないと、反対に生きていくことがつまらないものにならないでしょうか。」と有りました。帰路はしもうさ号に乗り武蔵浦和で下車しました。教育学部外国語選択オリエンテーションの日程をNOLTYに書き込んでおきました。(写真はポール・ゴーガンの「海辺に立つブルターニュの少女たち」です。)