柄谷行人著『増補 漱石論集成』を読み始めました。

以下は柄谷行人著『増補 漱石論集成』(平凡社ライブラリー)より抜き書きです。(『こころ』の先生が殉死した)「「明治の精神」とは、いわば”明治十年代”にありえた多様な可能性のことです。」・・・「漱石が「明治の精神」と呼ぶものは、明治二十年代に整備され確立されていく近代国家体制の中で排除されていった多様な「可能性」そのものだった、といっていいのではないでしょうか。」・・・「この可能性とは、別の観点からいえば、文学の可能性でもあります。十九世紀西洋の近代小説だけが文学なのではない。そこに向かうのが発展なのではない。たぶん漱石は近代の「小説」中心主義に、あるいはそれがはらむ抑圧性に、抵抗しつづけたのです。」(p.498.)こう語る柄谷さんは「漱石の言語的多様性がいかにして可能だったか」(p.480.)という疑問に対しても「あらゆる可能性を含む”零度”として」(p.481.)の「文」(エクリチュール)を対置していきます。漱石の文章の豊饒さはまさしく一つの奇跡ですが、ある意味で画一化に向かう近代化に対する「Non!」を作家が発していたのだという主張には説得力があります。漱石は小説を書いたのではない、「文」を書いたのだと言うのですね。