柄谷行人氏の論文から色々と空想しました。

漱石の「文」について柄谷行人氏が語っていることを読んで色々と想像を逞しくしました。柄谷氏はこの「文」を例えばバフチンの「カーニバル的なもの」に比べたり、フロイトの「エス(無意識)」に比べたりしています。まだ萌芽状態の混沌とした可能性を失っていなかった未開の「文」への郷愁も感じられます。(私の誤読かも知れませんが。)・・・そこでふと思い出したのはルーマニア出身でフランス語で著述していた批評家E.M.シオランがフランス語に対して投げかけていた不満のことなのです。シオランの正確な言葉は忘れてしまいましたが「フランス語は洗練と引き換えに荒々しい原初的なエネルギーを失ってしまった。むせ返るような馬小屋やまぐさの香りを失ってしまった」というような言説だったと思います。シオランは例えばスペイン語などにはそういった「原初のエネルギー」が残存しているとも言っていた記憶があります。・・・漱石の「文」が我々に与えてくれる強度の強い快楽も、その根底には制度的な「文学」が忘れてしまった原初的なエネルギーの存在があるのかも知れません。