国立新美術館で「ルーブル美術館展」を観賞しました。

 午後は12時1分の快速新木場行きで移動を開始しました。車中では幸い座席を確保できたので友人の岩佐倫太郎君の『印象派琳派がわかれば絵画が分かる』(舵社)を読みました。「抽象画に開眼するとき」と言うコラムにこんな言葉が有ります。「乱暴な言い方かもしれませんが、僕は抽象画の見方は雲の見方と同じであると言いたい。雲で遊べる人は皆、抽象画の線や色を楽しむ才能を間違いなく持っています。頭にバカンスを与えて、意味を考え続ける労役から解放してやるのです。」と有りました。池袋で下車して原宿に向います。原宿で下車して明治神宮前駅に向います。乃木坂で下車して国立新美術館に向います。国立新美術館で「ルーブル美術館展」を観賞しました。これで五回目になるのですが、今日は最終日と有って会場は混雑していました。先ず会場に入ると「雄牛と牛飼いのオストラコン」が有り石灰岩の表面に雄牛と牛飼いが素朴な絵で絵か描かれています。ル・ナン兄弟の「農民の食事」は粗末な身なりをしてパンとワインが置かれキリストの体と血の象徴とされる農民が、それを食べているのは、キリストと一体化しようと思っているのだろうと思いました。ウジェーヌ・ドラクロワの「鍛冶屋」は手に鉄の固まりを持っていて、これから鍛えようとしています。ジャン=フランソワ・ミレーの「蓑をふるう男」は農民画家と呼ばれたミレーに相応しい絵で一人の男が蓑を振るっています。ハブリエル・メツーの「リンゴの皮をむく女」はパネルに寄ると、女性の勤勉さという美徳を表すモチーフとして描かれたそうです。エステバン・ムリーリョの「物乞いの少年(蚤をとる少年)」は貧しい少年が蚤を取っている画面でボロボロの服を着ています。ジャン・バティスト・グルーズの「割れた水瓶」は純潔の喪失をテーマにしているのですが、女性が余りに美しいので、その事実を忘れそうになってしまいます。フランソワ・ブーシェの「オダリスク」はパネルに寄るとブーシェの13歳下の妻を描いたそうで、お尻を丸出しにしています。書斎で美術館のカタログを見直しました。買ってきたばかりの「鴨居玲展」の作品は美しいものは殆ど無く、死を意識している暗い作品が目立ちます。ブリヂストン美術館で見た「描かれたチャイナドレス」はあっからかんとして明るいですね。藤島武二の「匂い」や「東洋振り」を楽しみました。森アーツセンターギャラリーで観賞した「ラファエル前派展」はジョン・エバレット・ミレーの「オフィーリア」が有り狂気に囚われ、川に落ちて、流されている姿が有りました。今日は息子の誕生日で夕食は鰻の蒲焼だと決まっていて、夕食が待ち遠しいです。(写真はティツイアーノ・ヴェッチリオの「鏡の前の女」です。)