『明暗』を支えているのは、憑かれた文体ですか?

加藤周一小森陽一石原千秋の鼎談が面白いですね。加藤氏によれば、漱石は上手く考えて計画どおりに小説を作ってきたと言います。「手」が見える小説を書いてきたのです。だが『明暗』だけは例外だと加藤氏は言います。以下は引用です。・・・「漱石自身に見えていない。だから、読者にも見えるはずがないわけだ。そこには何が出てくるか分からないということがあるんだね。だから『明暗』を支えているのは、憑かれた文体というか、インスピレーションだと思うんですよ。基本は「こういうことを書こう」というのじゃなくて「こういうことを書かされる」という受け身です。エッケルマンとの対話でゲーテが言った「デーモン」という定義がそういうことでしょう。つまり、デーモンがやって来て「おまえを」強制して、デーモンという分からないものに引っ張られた形で、書きたいとか書きたくないとかじゃなくって、書かないわけにいかないから書かされる、という理論ですね。」(「漱石研究 特集『明暗』」、翰林書房p.11.)・・・鋭い指摘だと感じました。