吉本隆明氏の『夏目漱石を読む』(筑摩書房)をやっと読了しました。

takuzemi2008-01-24

強風の吹き荒れる一日でした。入試関連の業務の半日出張で某所まで移動しました。同僚の先生方や職員さんたちと一仕事を片付けてきました。地方入試とそれに続くA日程入試が一段落するまでは色々と心配事も続きます。
このところ自分の時間がなかなか取れません。時間の流れそのものが断片化しているようです。先日から読んでは中断するという繰り返しをしてきた吉本隆明氏の『夏目漱石を読む』(筑摩書房)をやっと読了しました。末尾の部分を読むころには冒頭の部分の内容を忘れているというていたらくです。吉本氏は国民的作家漱石と狂気じみた作家漱石という二面性のある作家の双方の面に眼を向けて、どちらも面白いぞと読んでいこうと結論しています。初期作品である『吾輩は猫である』を「軌道が定まった漱石より以前の、混沌とした漱石のすべてが投げ込まれている」(p.15)作品だとも読み取っています。『猫』は前半部分では移動する「耳」の役割を、後半部分では移動する「眼」の役割を果たしているという指摘も面白いと思いました。吉本氏は『門』については「漱石の作品のなかで、この『門』が前からいちばん好きな作品です」(p.133)と断言なさっていて、宗助の妻・お米を「お米さん」と「さん」付けで呼んでいる箇所があるのを微笑ましく感じました。漱石の死によって未完に終わった『明暗』の結末を「平穏な日々が津田とお延のあいだに帰ってくるみたいな結末」(p.254)だろうと予想しているのも納得が行きました。