デッキからの夕日の眺めが素晴らしい夕刻でした。

今日もアラゴンの『ブランシュとは誰か』(柏書房)を稲田三吉先生の訳で読み続けました。妻のブランシュに見捨てられながら、その思い出を求め続ける老言語学者ゲフィエには、結局最後まで最愛の女性の本心が分からなかったのでしょう。・・・漱石の『行人』における直と一郎の関係なども思い出してしまいました。それにしてもアラゴンの作品には男女間の断絶の悲劇が克明に書き込まれています。
コンピュータやら読書やらで過ごしているうちに眼の奥が痛くなってきました。疲れがたまってきているようです。夕方の散歩に出掛けることにしました。寒くなっているので遠出は断念して快速で大宮まで移動しました。駅前のSofmapで中古のノートパソコンを物色しました。もちろん見るだけです。
年末の駅の構内をぶらぶらと散策して雑踏の中に自分を投げ出してしまう感覚が嫌いではありません。ジャン・グルニエ井上究一郎訳『孤島』(竹内書店)で次のように書いています。「幸福感がわきおこるとき、たしかにそうだ、存在は実在する。千分の一秒のあいだ「放心する」だけで十分なのだ。鎖は断ちきられる」(p.142.)・・・駅のペデストリアンデッキからの夕日の眺めが素晴らしい夕刻でした。