『道草』を読んで一日を過ごしました。

takuzemi2009-06-27

土曜日には夏目漱石の『道草』を読んで週末の一日を過ごしました。漱石は『硝子戸の中』というエッセイを新聞に連載して、幼時の思い出を書き記しました。こうした過去への視線が『道草』という作品を書き始める契機になったのだと柄谷行人氏も新潮文庫版の解説で指摘しています。
健三が文学への志を持っていることは「けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた」(新潮文庫p.10.)というような表現から読み取れます。「今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴る面白い気分に駆られた。」(p.287.)は「ホトトギス」に掲載された『吾輩は猫である』の第1章を思わせる記述です。そして、「予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。「ああ、ああ」彼は獣と同じような声を揚げた」(p.287.)という場面で書かれた『猫』の第2章は、「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」(p.274.)という健三自身の自分に対する問い掛けの解答となるものなのではないでしょうか。
『道草』の文体も凄いと思います。『猫』の饒舌や『虞美人草』の絢爛豪華を捨て去って、ここまでニュートラルな記述法に良くもたどり着いたものだと思います。そうした透徹した冷静な文体を通じて、初めて漱石の投影である健三と、鏡子さんの投影である御住とを見事に距離を置いて見つめることができたのでしょう。久し振りに素晴らしい読書の時間を持つことができました。