『ノルウェイの森』の「僕」と「緑」は結ばれたのだろうか?

 山根由美恵氏の本を読んで『ノルウェイの森』の「僕」と「緑」が結ばれたのかどうかを考えてみました。
 『ノルウェイの森』の冒頭でビートルズの同名の曲を聴き激しく動揺している「僕」のかたわらに「緑」がいるとはどうしても思えません。この作品のラストシーンで「どこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」「僕」が「緑」とカップルを組んで暮らしている形跡はテクストからは読み取れないのです。山根由美恵氏も「僕」と「緑」は結ばれなかったという解釈を提出しています。(『村上春樹<物語>の認識システム』)氏によれば「『ノルウェイの森』は、「僕」が二十歳の時「緑」に説明できなかった「直子」との関係を説明した「緑」へ向けた手記」だと言うのですね。「つまり、「直子」の死の意味を理解した「僕」が、自らの罪を描くことで、自らの過去を全て「緑」にさらけ出し、新しい生を生きようと決意した」のだと言うのです。
 漱石研究家の熊倉千之先生の主張するところによれば、一つの小説作品に主人公は一人だけ、しかもその主人公は必ずクライマックスで「変身」するのだと言います。こうした仮説を援用するならば、『ノルウェイの森』の主人公は37歳の「僕」であり、クライマックスでの主人公の「変身」は「新しい生を生きようという決意」と読み取ることができるでしょう。ただし、この「僕」が以後どのような生を選んでいくのかは読者の想像に任されています。この小説がオープンエンディングの小説であることに変わりはありません。(元荒川の河川敷も菜の花が満開となりました。)