「偽の自伝」というキーワードについて考えました。

takuzemi2010-04-02

 風邪がぶり返したようで熱が出ています。湘南キャンパスで連合教授会の予定が入っているのですが、無理はせずに自宅で停滞することにしました。朝の起き抜けの時間は「文学」のハンドアウトを点検しました。夏目漱石をメインに据えて語り始めてから、すでに3年ほどが経過しています。講義録の方も充実してきたと自負しています。それでも初回の話題をどんな風に展開しようかと考え始めると色々と思い悩んでしまいます。あれも面白そう、これも*「偽の自伝」というキーワードについて考えました。
 風邪がぶり返したようで熱が出ています。湘南キャンパスで連合教授会の予定が入っているのですが、無理はせずに自宅で停滞することにしました。朝の起き抜けの時間は「文学」のハンドアウトを点検しました。夏目漱石をメインに据えて語り始めてから、すでに3年ほどが経過しています。講義録の方も充実してきたと自負しています。それでも初回の話題をどんな風に展開しようかと考え始めると色々と思い悩んでしまいます。あれも面白そう、これも面白そう・・・と選択肢が多すぎるのですね。「偽の自伝」というキーワードから語り始めようかとも考えました。
 フランス文学者の鈴村和成氏が村上春樹の作品を語っている言葉に妙に納得したことがあります。鈴村氏は「作家の主体=私(わたくし)性の、主人公への投影のされかた」が私小説の場合と村上春樹の小説とでは違うんだと強調しています。鈴村氏によれば、「私小説では作家が即、その小説の主人公」です。ところが「村上はそういう私小説的な小説のあり方を虚構の中に転換して、偽の自伝と言ってよいものを書くんです。つまり自分に似たものを「僕」に投影していくんですけど、しかし同時に自分からは切り離されて、書く主体としての村上よりも向こう側に行ってしまった自分というものをつくっていく。そこに彼のつくり出す「僕」という主人公が読者を引っ張ってゆく霊媒的な力があると思います。」と語っているのですね。『[国文学解釈と鑑賞]別冊 村上春樹 テーマ・装置・キャラクター』(至文堂, p.8.)
 こうした「偽の自伝」という言葉はさまざまなことを連想させます。あり得たかも知れないこと(=実は不在であること)を浮かび上がらせる装置として小説を考えるという視点を与えてくれるからです。例えばフランスの作家アラゴンは『オーレリアン』という小説で主人公オーレリアンが悲恋をするヒロイン・ベレニスを見事に造形しました。晩年の小説『ブランシュまたは忘却』では主人公ジュフロワ・ゲフィエを捨てて逃れ去る妻ブランシュを造形しました。そうした女性像が若き日のアラゴンに痛烈な失恋の痛手を与えた現実の女性ドゥニーズ・レヴィに「もう一つの生」を与える試みだったかも知れないと考えると興味津々です。