武田充啓さんの「夏目漱石『彼岸過迄』論の前提」を読みました。

桜並木のトンネル

 猛暑の日々が続いています。暑くて頭の働きが鈍っているような気がします。10日ほど前に2日間続けて外回りの仕事(指定校訪問)を片付けました。気が付いてみたら、その辺りからメールのチェックを怠り続けていたのです。昨日、友人の胡風さんから携帯に電話をいただきました。私がメールをチェックせずにいるうちに、友人たちの間では秋の旅行の計画についての話題が盛り上がっていたのでした。さっそく友人たちにはお詫びのメールを打っておきました。(助手のMさんにもシラバスを添付したメールを送っておきました。)
 朝の起き抜けの時間は武田充啓さんの論文「夏目漱石彼岸過迄』論の前提」(URLは下記)を読みました。『彼岸過迄』の中心的な登場人物である田川敬太郎と須永市蔵の二人に焦点を当てて論じています。敬太郎も須永も「行動」や「自己変革」の契機を奪われた存在なのだと主張しています。例えば『こころ』の青年「私」は武田氏によれば「単なる「聞き手」、「報告者」の立場を越えて、自ら(自己を自己たらしめていたはずのものとしての)<故郷>喪失者とならざるを得ないような「冒険」を余儀なくされる」のです。ところが「敬太郎の「冒険」は、自己を変革しない」のですね。須永も千代子から非難される場面で「自己を変革させ得る可能性」を垣間見たはずです。けれども結局は須永は自己の「倫理」を言い訳に、その機会を拒絶してしまうのです。大変に面白い論文でした。
http://www.libe.nara-k.ac.jp/~takeda/tmri.html