アラゴンは「読者としての作者」という概念を提示しています。

 午後は大学の図書館まで出掛けることにしました。武蔵浦和の駅のホームでシャープのザウルスを取り出して起動しました。気が付けば何と512MBのコンパクトフラッシュが刺さっていません。データをコピーするためにDELLのコンピュータに刺したまま忘れてきたのでしょう。仕方がないので家まで取りに戻りました。大学の図書館に着いたのは2時過ぎとなってしまいました。
 図書館の地下の閲覧室で草案を考えました。アラゴンは『冒頭の一句』の中で「読者としての作者」という概念を提示しています。「ぼくは本当に自分の小説を書いたことは一度もない、それらを読んだのだ」(p.48 渡辺広士訳)と語りながら、天啓のように現れた「冒頭の一句」を読み、聴くことで、それに続く言葉たちが紡がれていくと言うのですね。
 例えばあなたが『吾輩は猫である』の作者だと仮定してみましょう。ある日、シュルレアリスムの自動筆記のように頭の中に「吾輩は猫である。名前はまだない。」という言葉が浮かびました。「あれ? これってどんな猫? どこで生まれたの? どこで暮らしてるの?」などなどのさまざまな疑問が浮かんできますよね。それに答えつつ、ロマネスクな世界を紡いでいくのが「読者としての作者」なのだとアラゴンは言うのです。
 ちょっと風邪気味で喉が痛みます。閲覧室の冷房が効き過ぎているのも気に掛かります。ポロシャツから出している両の腕が冷たくなりました。それでも2時間ほどで原稿を少々書き上げました。アウトラインもヴァージョンアップを試みました。原稿もアウトラインもすべて「走書体」でA4の紙の上に走り書きしています。今日はまずまずの乗りでしょうか。(アカメヤナギの木陰で一休みしていきたくなります。)