コンピュータに対して熱く盛り上がる時代だったのです。

 余りの暑さで散歩に出掛ける気分にもなりません。クーラーの利いた部屋に籠もっているばかりです。バイオリズムの波もあるのでしょうか。今日は草案の書き直し作業もまったく乗りません。さりとて、読書に専念するだけの集中力も出てこないのですね。何となく運が尽きてしまったような気分です。
 仕方がないので午後もアラゴンの『レ・コラージュ』のデータベースを作る作業を少々進めました。文字認識ソフトの「e.Typist」はなかなかのお利口さんです。以前使っていた「Text Bridge Pro」と比べると天才と鈍才ぐらいの差があります。(ただし「Text Bridge Pro」の方はだいぶヴァージョンが古いものを使っています。その点では公平な比較ではないかも知れません。)
 夕方になっても少しも涼しくなりません。駅前の須原屋書店まで散歩がてらに出掛けました。コンピュータ関連の雑誌を立ち読みしました。買って帰りたいと思うほどの雑誌がありません。ふと考えたのですが、コンピュータに対して人々が抱いていた全能感や万能感というものはもう存在しないのですね。初期のアップルのCMに使われたという「知の自転車」というコピーは人間の思考の補助者としてのコンピュータという観念を正確に伝えるものでした。コンピュータがあれば何かできると思える時代がかつてはあったということでしょう。Nifty-Serveという「パソコン通信」(!)のフォーラムがThink Pad 220やHP200LXの話題で盛り上がっていた遠い昔を想い出しました。コンピュータに対して熱く盛り上がる時代だったのです。月に一回、埼玉の田舎から東京に出て、TMUG(Tokyo Macintosh User Group)の集まりに参加したのも懐かしい思い出ですね。(今日の写真は私の住んでいるマンションの周辺にあるオブジェの一つを選んでみました。実は「長靴を履いた猫」のオブジェなのです。)