シャンセルの「ラジオスコピー」のカセットを引っ張り出しました。

takuzemi2012-06-11

 昨夜は久し振りにジャック・シャンセルの「ラジオスコピー」のカセットを引っ張り出しました。小さなテープレコーダーにマルグリット・ユルスナールなどのインタヴューのカセットを入れて聴いてみたのです。ふと連想が働きました。何だか大江健三郎氏の『取り替え子(チェンジリング)』のシチュエーションと似ているなと思ったのです。この小説の冒頭では作家の長江古義人が自殺した映画監督の義弟・塙吾良が残した50本ほどのカセットを夜、ウィスキーを飲みながら「田亀」と愛称を付けた小さな丸っこいテープレコーダーで聴くという場面が続きます。塙吾良は大江の義弟の自殺した伊丹十三がモデルです。長江古義人はもちろん大江本人がモデルであることは言うまでもありません。
 iPadで調べてみたらジャック・シャンセルは健在で現役でテレビ関係の仕事をしている様子です。けれどもマルグリット・ユルスナールを始め「ラジオスコピー」のゲストたち、ジャン・ポール・サルトルジャン・ルイ・バローロラン・バルトミシェル・フーコー・・・と次々と鬼籍に入ってしまった人々ばかりです。
 ここまで考えてきて『ランボー全詩集』(ちくま文庫)の脚注に「フロゾポペ」というレトリックに付いて訳者の宇佐美斉先生が解説を加えていたことを思い出しました。「プロゾポペ」とは死者や不在者、動物、植物など声を持たない者が語るレトリックだとのことです。ランボーの「酔いどれ船」はまさしく船そのものが一人称で語るんですから立派な「プロゾポペ」ですね。我が国の夢幻能なども同じことです。死者たちや不在者たちが語る声に耳を傾けることを人生の中の一つの時間として取っておくことも選択肢としてありそうですね。