河岸段丘を下ると一面の水田が広がっていました。

 狭山で暮らしていた子供の頃のことです。親父が酔っぱらうと私に向かって「お前は弁天池のほとりで拾ってきた子供なんだ」と軽口を叩くのです。弁天池は菩提寺だった沢の天岑寺に行く手前にあった小さな池でした。池には大きな蝦蟇ガエルがうようよといました。子供心にも気味が悪かったものです。
 清流と言えば窪川という小川もありました。深さ70センチ、幅1メートルほどの畑の合間を流れる川でした。水は澄み切っていて底まで見通せます。川の中は水草がいっぱいで、覗き込むと目の中に緑が飛び込んできたものです。
 反対の方向に河岸段丘を下ると一面の水田が広がっていました。農業用水の赤間川も昔は自然堤防のままでした。綺麗な川でした。春になると川岸にセリやノビルの若菜が自生します。私はノビルは採るのも食べるのも大好きでした。酢味噌の甘酸っぱい味を思い出します。祖母が好きだった蕗の薹(フキノトウ)は少々苦手でしたね。
 住宅地と水田との間にはかなりの高低差がありました。崖と呼んだ方が良いでしょうか。その崖から一年中、湧き水が流れでてくるのですね。「蔵の井戸」と呼ばれていました。子供の頃に良く水遊びを楽しんだものです。息子が小さい頃にも仲間たちと遊んでいた記憶があります。残念ながら最近は水が枯れてしまったようですね。昔々の故郷の水にちなんだコスモロジーを思い描いてみました。