数日前に佐々木中氏の『しあわせだったころしたように』を読みました。

 数日前に佐々木中(ささきあたる)氏の『しあわせだったころしたように』(河出書房新社)を読みました。膵臓癌で死んだ姉。彼女は映画監督、主演女優、そして作家として活躍した多才な人物でした。その姉の残した沢山のノートを託された姪は姉の弟である語り手に遺品を託します。この弟も何故か記憶喪失の2年間を見知らぬ女と千葉で過ごしていたという設定です。物語としてはデータが不足していて良く分からない状況です。
 ところが佐々木中の文体が素晴らしい。こんな文章は私は今まで読んだことがありません。日本語の文脈を壊してやろうという意図があるのでしょうか。読者には想像できないところで読点や句点を打ってしまう。聞き慣れない古語のような単語もテクストの中に密輸入される。その文体が何とも「テクストの快楽」なのですねえ。この文体は何とも癖になりそうなインパクトがあります。
 『しあわせだったころしたように』には二重の意味があるのでしょう。「幸せだった。殺したように」という言葉が見え隠れします。テクストの中に書き込まれた遊びが半端ではありません。佐々木中はストーリーの流れに読者を誘い込むのではなく、むしろ現前するテクストの黒い文字の動きに読者を誘い込むことを狙っているのでしょう。そこから読者に取っては読むことの現在時しか存在しないようなテクストが眼前に提示されるのですね。佐々木中のテクストは現実の対応物を欠落させたテクストと言えるのかも知れません。その欠落は逆説的ですがテクストの豊穣に接続しています。