朝の儀式のようになった「瞑想」にしばらく耽りました。

takuzemi2013-06-22

 朝は何と5時に目が醒めてしまいました。これ以上眠れそうもないので、和室から居間に移動して、カーテンを大きく開きました。朝の儀式のようになった「瞑想」にしばらく耽りました。明るいベランダの窓に向かって、ロッキングチェアに座り、呼吸を調えるだけのことです。朝のごみ捨てを済ませてから、新聞にゆっくりと目を通しました。それから今日のTODOをA4の紙に書き出しておきました。
 起き抜けの時間から8時過ぎまでは中野京子著『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』(NHK出版新書)を読みました。印象派の画家たちが社会を批判的に見る視点を欠いていたことは初めて著者に知らされて驚きました。著者は次のように書いています。「同じことはドガ『エトワール』にもあてはまります。下層階級の女性を見下していた画家は、踊り子とそのパトロンの関係を当然のものとして、何ら批判精神はなく、しかもみごとに瞬間の美を切り取って見せた。」(p.187)・・・印象派の画家たちの絵画が新興国アメリカによって買い取られたという事実も初めて知りました。しかも画家たちは成り上がりのアメリカに自分の作品が買い取られることを喜んでいなかったという事実も初めて知りました。第7章の「性と孤独のあわい」にはブルジョワジーの男性たちと下層階級の女性たちの関係も印象派の絵画の中に描き込まれていることを教えられて、少しばかり胸が痛くなりました。もちろん印象派の画家たちはそうしたことに批判の矛先を向けたり、社会が悪いと呟いたりはしないのですが。・・・