「則天去私」のように流れに身を委ねるということでしょうか。

takuzemi2013-07-28

 昨夜は夜になってから大雷雨となりました。ドミニック・ローホーさんの本に「放棄のメタファーとしての雨」という言葉がありましたが、こんな激しい自然現象を前にしては主体性を完全に放棄してしまうしかありません。受動的な状態に身を置いて、一観客として稲妻の美、壮絶なまでの美をスペクタクルとして受容するしかありません。漱石の言う「則天去私」のように流れに身を委ねるということでしょうか。天候の急変は人間の意志では変えられない巨きなものの存在を思わせます。そこでは「存在の大いなる連環」に気付いたり、ニーチェの言う「運命愛」に気付いたりする契機が目の前に提示されているのかも知れないと思ったりしました。それでも隅田川の花火大会が中止になってしまったのは残念でしたが。……
 今朝は5時過ぎに目が醒めてしまいました。居間のロッキングチェアの上でしばらく瞑想に耽ってから、地下の貯蔵室までごみを捨てに行きました。新聞にゆっくりと目を通してから、3年ゼミ生の諸君が書き上げたレポートに目を通しました。驚いたのはM君のレポートです。村上春樹氏の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)を分析したものなのですが、見事な分析力に舌を巻きました。登場人物の「シロ」と「クロ」を混ぜ合わせると「灰色」になることを指摘して、別な登場人物・灰田を召喚するなどは見事なものです。「シロ」を肉体を担う存在、「クロ」を心を担う存在として両極化したテクニックにも感心しました。A4で12ページもある大変な力作でした。