三四郎は常に切迫した歩行者であるわけではありません。

takuzemi2013-08-15

 夏目漱石の『三四郎』はロード・ムービーになぞらえることができるのではないかと思い付きました。電子辞書で「なぞらえる」を引いてみると「人生を航海になぞらえる」という用例が出ていました。先ずは三四郎の旅は汽車での移動から始まるわけです。名古屋の女に出会ったり、後に広田先生だと分かることになる人物と出会ったりと、さまざまな人物たちとの出会いが連続します。「人生を航海になぞらえる」なら三四郎にとっての危機的状況との接近遭遇もあります。野々宮さんの家に泊まって轢死した若い女性を目撃するのもその一例でしょう。
 三四郎は常に切迫した歩行者であるわけではありません。時には「そぞろ歩き」を愉しんでいる一面も見られます。道草して意外なひらめきを獲得しているところもあるのですね。かくして、三四郎は美禰子や余次郎たちと次々に新しい出会いを重ねていくことになります。けれども、そうした出会いも時には「壊れもの」(fragile)に見えます。実は『三四郎』の主題は「人生は壊れものだ」というテーマが色濃く書き込まれているように感じられるんですね。他の多くの夏目漱石の作品と同様に『三四郎』もオープン・エンディングな終章を持っています。人生には固定した結末などないという作者の考え方が出ていると言いましょうか。『道草』の主人公の健三が作品の終章で「世の中に片付くことなんて、何一つありはしない」という意味のことを呟く場面と同じですね。今日はA4の紙を横向きに置いて作ったマインド・マップを元にしてテキストファイルを作ってみました。愉しい作業でした。