今日は「信頼できない語り手」という概念に付いて学びましょう。

takuzemi2014-02-23

 今日は「信頼できない語り手」という概念に付いて学びましょう。アメリカの文芸批評家であるウェイン・ブースが作った用語に「信頼できない語り手」というものがあります。例えばウィキペディアでは子供の語り手、読者を騙す語り手、精神に問題のある語り手、記憶のあいまいな語り手などの例を挙げています。精神に問題のある語り手に関しては夢野久作の『ドグラ・マグラ』の例が挙げられていて、私も愛読していたので妙に納得が行きます。芥川龍之介の短編「藪の中」などはさしづめ七人出てくる語り手の全てが「信頼できない語り手」に当てはまってしまいます。千種キムラ・スティーブンさんは夏目漱石の『三四郎』に付いての研究書の中で、視点人物でもあり語り手でもある三四郎を判断力が不十分な存在だと位置付けています。つまり三四郎の判断を読者がそのまま鵜呑みにしないように呼び掛けているのですね。そんな三四郎の判断を批判的に受け取る存在を千種キムラ・スティーブンさんは「局外の語り手」として位置付けています。なるほど登場人物たちの中には真正でない偽のメッセージを投げ掛けてくる者も時として存在しています。小説の作者たちがこうした「信頼できない語り手」を作品中に導入するのは一種のゲーム性を目指しているということもあるのかも知れません。もちろんゲームの相手は読者ですよね。江戸川乱歩の『少年探偵団』のシリーズに出てくる明智小五郎に対して怪人二十面相だったら、読者も巻き込みつつ「分かるかね、明智君?」と作者は読者に目配せを送るのです。