そのまま帰るのも勿体ないので三菱一号館美術館を再び訪問することに

takuzemi2014-02-27

.アラゴンが提唱している「冒頭の一句」という概念に付いて学んでみましょう。
 今日は詩人で作家でもあるフランスの文学者ルイ・アラゴンが提唱している「冒頭の一句」という概念に付いて学んでみましょう。アラゴンは「冒頭の一句」を重視しつつ、それを「ロマネスクな世界」への入り口と定義しています。例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』を例に取れば「吾輩は猫である。名前はまだない。」が「冒頭の一句」になりますね。あるいは太宰治の『走れメロス』なら「メロスは激怒した。」が「冒頭の一句」になるでしょう。「ロマネスクな世界」と現実の世界とはどこが異なるのでしょうか? ルイ・アラゴンは「ロマネスクな世界」が嘘を付くことを許容してくれる世界だと断言しています。現実の世界と異なる「ロマネスクな世界」を経巡る体験は読者をして「冥界巡り」の体験を擬似的ではあるものの、読者に与えてくれます。こうした「冥界巡り」を体験した読者は一つの体験を通じて以前とは異なる自分を獲得したのだとも言えるでしょう。読書体験に何かの意味があるとすれば「読者を変えてくれる」という以外に意味がありません。「ロマネスクな世界」を体験することで読者が変身すること、そこには読書行為の本質的な醍醐味が読み取れるように思われます。夏目漱石の『三四郎』で主人公の小川三四郎が里美美禰子に失恋したのも、一つの知の獲得と取ることができるのではないでしょうか? つまり三四郎は自分の分限が美禰子にはとても及ばないことをわきまえたのでしょう。これは「マイナスの変身」と言い換えることができそうですが、三四郎が一つの認識を獲得したことは確実に言えることだと思います。

.そのまま帰るのも勿体ないので三菱一号館美術館を再び訪問することにしました。
 昨日の午後には教育支援課に届けなければならない書類があって午後になって大学まで移動しました。用事は書類を提出するだけで済んだのですが、そのまま帰るのも勿体ないので三菱一号館美術館を再び訪問することにしました。中目黒行きの各駅停車に乗り、上野駅で下車して東京に向かいました。インターネットで入手したJR東京駅からの最短ルートの地図があるので目的地を見失うことは有り得ません。慣れた地下街を通り抜けて地上に出ると当の美術館が目の前に現れました。さっそくチケットを買って館内に入りました。ウィリアム・ド・モーガンの「大皿」は孔雀の絵が描いてある色彩豊かな大皿でした。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「愛の杯」も素晴らしい作品で高貴な顔立ちの女性が蓋付きの容器を両手に持って何かを飲み干そうとしている姿が描かれていました。フレデリック・サンズの「メディア」は相手を呪い殺す魔女なのですが、むしろ自らが苦しんでいるような表情に驚きを感じ取りました。エドワード・ポインターの「メアリー・コンスタンス・ウィンダム(エルコ卿夫人)」は小品ですが、気品のある女性が横たわっている肖像でした。ブルース・ジェイムズ・タルバートの壁紙「ひまわり」はウォルター・クレインの「ポイント・ペーパー」と並んでまさしく様式美の極致と呼んでも良いような作品でした。今日も観客はさほど多くはなく、ゆっくりと数々の作品を観ることができました。ミュージアム・ショップに寄って全ての作品を掲載したカタログを買って三菱一号館美術館を後にしました。帰りの車中ではつげ義春の夫人だった藤原マキさんが描いた『私の絵日記』(ちくま文庫)を読了しました。1992年2月にガンで亡くなった藤原さんの「シアワセノカタチ」を確実に読み取ることができました。