今日は夏目漱石の『吾輩は猫である』に付いて語るのです。

takuzemi2014-04-18

 昨日の17日金曜日には新越谷の駅の構内の小諸蕎麦で天麩羅蕎麦を食べて昼食にしました。午後1時からの「文学」の講義が待っているので、足早に大学に移動しました。早めに13101大教室に移動してハンドアウト文教大学出席調査票を設置しておきました。一旦、教育支援課に寄って13101教室のコンソールの鍵を借りて研究室に戻りました。今日は夏目漱石の『吾輩は猫である』に付いて語るのですが、アラゴンの「冒頭の一句」という考え方やベルト・ブレヒトの「異化効果」などの概念を援用して授業を進めるつもりです。アラゴンが提唱する「冒頭の一句」とは「ロマネスクな世界」への入り口を意味します。そこから物語の主人公に取っての異界への旅が始まるのですね。「異化効果」とは猫の視点を通して人間世界を見ると不条理なことがまかり通っているということですね。例えば猫はこんなことを言います。「第一毛を以て装飾されべき筈の顔がつるつるしてまるで薬罐だ。その後猫にも大分会ったがこんな片輪には一度も出会(でく)わしたことがない。」(新潮文庫p.5)と言うのですね。差別用語も頻繁に出てきます。またレトリックや対句、衒学趣味やペダントリーも取り入れて、多彩な「文」の祝宴が展開されているのが『吾輩は猫である』の特徴でしょう。最後に市川崑監督の『吾輩は猫である』を観て授業を終えました。伊丹十三さんが迷亭さんを演じている場面が出てきて懐かしく思われました。今でも『ヨーロッパ退屈日記』や『女たちよ!』を今でも愛読している私です。伊丹さんが早世されたのが今でも残念でなりません。