何かが憑依したようにアイデアが突然降臨することもあるのです。

takuzemi2014-04-25

 朝はどうしても5時ごろに目が醒めてしまいますね。カーテンの向こうの青空が輝いているからです。起き抜けにヨーグルトを一杯飲みました。今日の2限には相棒のFさんとの「ランボー読書会」が予定されているのですが、ミシェル・ビュトールのテクストを読むのも確か今日で3回目になるはずです。読書会の初期にはテクストの中にある意味が分からない単語の訳語を書き込んだりと熱心に下調べをしていたものですが、最近はさっぱりですね。むしろ読書会における即興性を追求していると言った方が良いのでしょうか。Fさんも私も授業のための下調べに多量の努力が必要とされる立場にあるからです。(そして、まだまだ新学期なので、そのことは何度強調しても足りません。)実は即興性とは天啓のように何かを与えてくれることもあるのですね。授業でも下調べは怠らないように真摯な態度を貫いているつもりですが、時に何かが憑依したようにアイデアが突然降臨することもあるのです。「演劇論」や「文学」などの講義物、あるいは小さなゼミでそんなアイデアが降臨する時には私は至福の時を感じてしまいます。それはアラゴンが『バーゼルの鐘』の「冒頭の一句」を書いた時の体験に似ているのかも知れません。『バーゼルの鐘』の「冒頭の一句」は次のようなものです。「ギーがロマネ氏をパパと呼んだとき、そのことで誰も笑いはしなかった。」と言うのですね。アラゴンはこの「冒頭の一句」に付いて「あたかも天啓のようにこの「冒頭の一句」が私の頭に降臨した」と言っています。小説に取って一番重要な要素が主体性に寄るものではなく、「天啓」という受動性の元に与えられたのですね。ここにはマルキストであるアラゴンに取っても、一つの超越性を想定させるものが有るように感じられます。