頭の中に「プロゾポペ」という言葉が突然浮かんで来たからです。

takuzemi2014-05-30

 朝は5時30分に目が醒めてしまいました。頭の中に「プロゾポペ」という言葉が突然浮かんで来たからです。「プロゾポペ」に付いては『ランボー全詩集』(ちくま文庫)の訳者である宇佐美斉先生がランボーの「地獄の季節」の脚注で碩学ピエール・ブリュネルの言葉を援用しつつ、次のように解説しています。「プロゾポペ」とは「不在者・死者・動植物・事物に物をしゃべらせる一種の活喩法」(『ランボー全詩集』(ちくま文庫p.247)このレトリックを活用すれば何にも言葉を語らせることができる訳です。身近な例で言えば夏目漱石の『こころ』に於ける「先生の遺書」でしょうか。青年に宛てて先生は次のように言います。「この手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもうこの世にいないでしょう。」(新潮文庫p.326)と。ここには死者を語らせる漱石の巧みなレトリックが認められます。先生が遺書を残さずに死んでしまったらと言う仮定を立ててみれば、それは自ずから明らかになる筈です。もう一つの例を挙げれば大江健三郎の『取り替え子』でしょうか。主人公の長江古義人が義弟の塙吾郎と奇想天外な方法で語り合うのですね。死ぬ前に吾郎は古義人に宛てて、数本のカセットテープを残して行ったのです。五郎の死に鬱になった古義人は、ウイスキーを飲みながら毎晩吾郎のテープを聴くのです。小さなカセットレコーダーはまるで亀のような格好をしています。古義人はそれを「田亀」と呼ぶのです。けれども、古義人と吾郎の対話は、もちろん「対話」とは呼べないものかも知れません。けれども古義人は主観の中では死んだ吾郎と対話を交わしていると思われるのですね。ここに「プロゾポペ」と言うレトリックの深い企みが認められると私は考えているところです。