主人公は一人であり、その主人公は小説のクライマックスで変身を遂げると言うのですね。

takuzemi2014-08-23

 『こころ』の主人公は誰なのだろう? 漱石の連作は「先生と私」「両親と私」「先生の遺書」の三部からなる短編の形式を取っています。この作品の主人公は誰なのだろうと考えると迷ってしまいます。「先生」なのだろうかそれとも「私」(青年)なのだろうかと二者択一を迫られるからです。
 熊倉千之先生が『漱石のたくらみ』(筑摩書房)で指摘する原則があります。一つの小説に主人公は一人であり、その主人公は小説のクライマックスで変身を遂げると言うのですね。この考え方を援用して、主人公を「私」(青年)と取ってみましょう。するとクライマックスは「両親と私」の最後の部分と読めます。父を捨て、故郷を捨てて列車に飛び乗る場面です。(この設定は『それから』の代助の取った行動ともパラレルです。)
 「先生の遺書」の部分は内容的にも質量的にも他の部分を圧倒する重要な部分です。しかし、この部分が「先生」から「私」に贈与されたものとして設定されていることを忘れてはなりません。遺書を贈られて所有しているのは「私」なのです。物語の時間軸を現実の時間軸に配列しなおすと、「先生の遺書」で語られている時間が一番遠い過去に置かれていることが分かります。
 「先生」はすでに死んでいます。主人公として変身する契機を持っていません。しかし、「先生」の血は「私」に受け継がれることになるでしょう。「私」は父の血を捨て「先生」の血を選んだのです。そして、変身の可能性があり、<成長>への契機があるのは「私」だけなのです。その後の「私」がどうなったのかを考えるのは読者の自由です。主人公を「私」だと同定するとともに、この小説は特定の結末を持たないオープンエンディングの小説となるからです。青年と奥さんとのそれからを想像するのも読者の自由です。