男子学生と女子学生の間で性差によるずれが生じると発言しています。

takuzemi2014-09-04

 今朝は読みの多様性に付いて考えてみました。東京大学教授の小森陽一氏は夏目漱石の『三四郎』の読み方に付いて男子学生と女子学生の間で性差によるずれが生じると発言しています。男子学生は主人公である三四郎に感情移入して読解する傾向が強く、女子学生はむしろ里見美禰子に感情移入して読解する傾向が強いと言うのですね。性差によりこうした偏りが掛かった見方が生じるのは重要です。読解に偏りが掛かった見方が生じるのは性差による原因ばかりではないでしょう。読者の個体差や個人史の違いによって多くのバイアスが加えられる筈です。こうした意味でテクストの一義的な「解」は存在しないと言わなければならないのでしょう。(ある物語の結末を「こうだ」と読めると言えるのは飽くまでも最大公約数としての結論なのです。)テクストを読む行為は一人一人の読者にとっては、その都度一回きりの出会いの体験であるのかも知れません。またギュスターヴ・フローベールの『感情教育』などは読者の年令によっても読みの多様性が生じるはずだと思います。若い読者だったら主人公のフレデリックに感情移入することはたやすいことでしょう。けれども、若い読者にとってはフレデリックの失われた生涯についての悔恨の念は生じないはずです。むしろ私のような老境に達した人間にその思いは強く感じられるのではないかと思っているところです。アルヌー夫人がフレデリックに長い髪を切って「これを持っていてください。さようなら!」と告げる部分は何とも感動的ですね。末尾に「それっきりだった。」の言葉が続くのが何とも思わせぶりです。