「ヨーロッパの文学」では643教室でパスカルの『パンセ』に付いて語りました。

 8時10分過ぎに別所沼まで散歩に出掛けました。この時間帯は「花と緑の散歩道」は通勤客や通学客たちが一杯です。今日は午後になると雨が予想されるとのことで、折り畳み傘を一本バックパックに詰めて大学に出掛けるつもりです。8時半になると通勤客の人並みも途絶え散歩道は閑散としてしまいます。服部外科胃腸科病院の駐車場には芙蓉と朝顔の花が咲き乱れていて、私も笑顔になってしまいます。別所沼に着いてみたらランニングやウォーキングを楽しむ人も疎らで孤独を楽しむことができました。いつものようにフルコースを回って、広場では、つぼみ、はな、ほし、つき、ゆき、そらなどの組分けが書かれていて幼稚園の生徒たちは曇り空の下で心持ち元気がないような感じでした。ベンチに座ってクラリネットを吹いていた老人が居たことが今日のトピックスでしょうか。
 3限の「ヨーロッパの文学」では643教室でパスカルの『パンセ』に付いて語りました。塩川徹也氏のハンドアウトに寄るとパスカルは「私」と格闘する天才で人間の不幸の根源たる自我を憎み、「私」からの脱却を説くパスカル。だが『パンセ』は憎むべき「私」の一人称に寄って綴られる。ここには「私」とパスカルの微妙な関係が認められます。「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう」。言語学者佐藤信夫先生はパスカルが本質的なレトリカルな書き手であると分析しています。対句表現を基本にして、レトリカルな表現も多用されています。生前自分の肖像画を描かせなかったパスカルのデス・マスクが後世に残されているのは歴史の皮肉とでも言う他はないと思ったことでした。