日本工業大学でお話しした「平成生まれの高齢化社会」に付いてお話ししました。

 2限の情報処理と言語文化では意表を突いて数年前に日本工業大学でお話しした「平成生まれの高齢化社会」に付いてお話ししました。漱石から始まる近代化の「明暗」と引き換えに日本人が失ったものは?と学生諸君に問い掛けてみました。若林幹夫は『漱石のリアル』(紀伊国屋書店)で「家の自殺」によって個人と生まれ変わった先生は両親の死、叔父の裏切りのために家郷から決別するために家屋を金銭に変えてしまいます。家を自殺させて、個人の誕生を成功させるのですね。この先生にはハイデッガーの言う不気味さが憑依しています。自分が存在している理由も意味も分からずに、居心地の悪い状態におちいってしまうのです。東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)に付いてもお話ししました。この本では大きな物語を喪失して動物化する現代社会のことが語られていて近代の世界をツリー型世界ととらえ近代の人間は物語的動物であり人間固有の渇望を社交性を通して満たすとしています。この場合には大きな物語と小さな物語の間に回路が有るのです。データベースは「生きる意味」を与えないので、データベースから抽出した要素の組み合わせを小さな物語として孤独に作るしかありません。最後に夏目漱石の「私の個人主義」の抜き書きを紹介しておきました。「私はこの世に生まれた以上何かをしなければなりません、といって何をして好いか少しも見当がつかない。わたしはちょうど霧の中に閉じ込められて孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。今までは他人本位で根のない浮き草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気が付いたのです。