別所沼から帰って書斎でTESLAのFIVE MAN ACOUSTICAL JAMを聴きました。

 別所沼から帰って書斎でTESLAのFIVE MAN ACOUSTICAL JAMを聴きました。叩き上げのバンドだけ有ってなかなかスリリングな演奏をします。ビートルズ・ナンバーの「We Can Work It Out」などを楽しみました。それからプロゾポペに着いて研究しました。宇佐美斉先生全訳の『ランボー全詩集』の脚注で知ったのですが、それは「プロゾポペ」と呼ばれているレトリックなのだそうです。プロゾポペは必ずしも「死者語り」とイコールなのではない。「不在者・死者・動植物・事物に物をしゃべらせる一種の活喩法」と宇佐美先生は定義されています。
 人間以外のものが語るというのなら、ランボーの傑作「酔いどれ船」はまさしくプロゾポペですね。船そのものが一人称単数の語り手として語る訳ですから。夏目漱石の『こころ』の第3章「先生の遺書」や芥川龍之介の「藪の中」なども同様の趣向としてカウントすることができるでしょう。村上春樹の『ノルウェイの森』でも、死んだ直子の側からの視線の投げ掛けが主人公のワタナベ・トオルの存在を規定していると言えるでしょう。なかなか面白いレトリックなので、そのうちに文学の講義で学生諸君に伝えたいものだと思っています。大江健三郎の『取り替え子』も伊丹十三を思わせる吾郎と彼が残したカセットテープを聴くことで擬似的な会話を成立させるのです。一方的な対話ですが主人公の古義人に取っては意味のあることだと読者には思われるのです。読者にリアリティーを感じさせる大江氏の筆力には本当に頭が下がります。(写真はベアトリス・アッピアの『ヒナゲシのお話』の挿絵です。)