泉屋博古館分館で「フランス絵画の贈り物 とっておいた名画」を観賞しました。

 午後は12時1分の快速新木場行きで移動を開始しました。車中では幸い座席を確保できたので、ジャン・グルエニの『孤島』(竹内書店)を読みました。その中にこんな言葉が有ります。「見知らぬ町における秘密の生活について私の夢にもどろう。私は自分をありのままに名のることはないだろう。そればかりか、異邦の人に口をきかなくてはならないときは、むしろありのままよりも以下の人間であるかのように自分を名のるだろう。たとえば、実際にある国を私が知っているとすれば、その国を知らないふりをするだろう。私に親しい思想を人が得々とのべたてるとすれば、私はそれをはじめてきくような態度をとるだろう。私の社会的地位がなんであるか、人にきかれるとすれば、私は自分の地位をひきさげるだろうし、私が労務者の監督であるとすれば、私は労務者だというだろう。」有りました。新宿で下車して千葉行きに乗って飯田橋に向います。飯田橋で下車して南北線日吉に行きに乗り、六本木一丁目で下車して泉屋博古館分館で「フランス絵画の贈り物 とっておいた名画」を観賞しました。先ずは800円のチケットを買って会場に入るとアントワーヌ・ヴァロンの「風景」が有り農家の裏庭のような何気ない情景を描いたもので、屋根の上に木立ちが見えているお蔭で、画面全体が三角形の構図になり安定した落ち付いた印象を醸していました。ジャン・フランソワ・ミレーの「草原の羊」は真っ白な羊たちが草を食んでいる姿を描いたもので、パネルに寄ると農家の出身のミレーは、農村生活のさまざまな情景を叙情的なトーンで描いたが、そこには常に生活の実感が息づいていた。ギヨーム・セニャックの「ミューズ」は茨の冠を被って微笑している白衣の女性で、澄んだ顔をしています。アドルフ・モンティの「林間逍遥」は真っ暗な画面で良く見えませんでした。パネルに寄ると正装の人物が描かれているそうで、良く見ると見えてきたものでした。アンリ・ファンタン=ラトゥールの「ばら」は繊細な筆遣いでばらを描いたものでばらの美しさを良く定着していました。ジャン=ジャック・エンネル「赤いマントの女」はドラマティックな構成の中に人物を写実的に捉えていて、明暗のコントラストが顔を引き立てています。マリー・ローランサンの「婦人像」は美しい婦人の肖像で真っ赤な唇が茶色の髪に良く似合っていました。マルク・シャガールの「黄色い太陽と旅人たち」は空中に浮遊している馬がいてその傍らに旅人がいて空には黄色い太陽が照り付けています。マルク・シャガールの「山羊のいる自画像」は山羊を連れた自画像で、現実には在り得ない緑色の顔をしています。向こうには眠った人も見え、山並みが迫っていました。ベルナール・ビュフェの「花」は針金のような鋭い線描で描かれていてダリアが描かれていました。ジュルジュ・ルオーの「一家の母」は一家の子供たちを引き連れた母を描いたもので貧しい子供たちなのしょう。社会の最下層に生きる人々を描いたものだと思いました。モーリス・ド・ブラマンクの「風景」は濁った景色の向こうに高台に建つ家並みを描いたもので白い雲と赤い屋根との対立を示めしています。