『ブランシュとは誰か』を読み続けています。

昨日からアラゴン著・稲田三吉先生訳『ブランシュとは誰か 事実か、それとも忘却か』(柏書房・原題『ブランシュまたは忘却』)を読み続けています。稲田先生の素晴らしい訳本が出る以前からの愛読書です。若いころからFolio版のポケット文庫で何度も繰り返して読み直した作品です。若いころには根気もあったので、色々と抜き書きやコメントをノートに書き込んで、言わば「『ブランシュまたは忘却』サブノート」とでも呼べるようなものが作ってあります。そのノートを脇に置いて参照しながら、分厚いテクストを先生の訳で読み進めています。・・・
アラゴンの前作の『死刑執行』と同様に一人称単数の話者が過去を回想するという形式を取ってはいます。ところが、ここでは話者である老言語学者ジュフロワ・ゲフィエの記憶が「忘却」によって大きく浸食されているという設定が作者であるアラゴンの創意なのですね。そこで、話者であるゲフィエは自己の内なる可能態としてのさまざまな声に発言の権利を与えていくということになります。独語から対話へ、対話から多声的な空間へと、絶えずざわつく過剰なまでの言葉の反響する空間が生み出されていく過程を再び楽しんでいます。